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徳川家康(14)

大徳寺の三門に自らの木像を安置した千利休に対し、寛大な処分をした豊臣秀吉でしたが、やがて、両者の関係は悪化し、千利休は切腹することになります。その後、弟の秀長、子の鶴松を相次いで失った秀吉は、その悲しみを忘れるため、大陸出兵計画を進めるのでした。

主な登場人物

あらすじ

千利休が、自らの木像を大徳寺の三門に安置したことを知った豊臣秀吉。それについて咎める気はなかった秀吉ですが、千利休が大陸への出兵を取りやめるよう進言すると、怒りが爆発します。そして、千利休を堺に蟄居させました。

しかし、秀吉は、千利休を本気で処分するつもりはなかったため、利休の木像を磔にして事を終わらせようとします。ところが、利休が自らの一分を貫き通したため、秀吉はついに利休をかばいきれなくなり、切腹させることになりました。

秀吉の大陸出兵の計画が着々と進みます。しかし、堺衆は、せっかく国内が治まったのに明との間で戦が始まると、再び戦国の世に逆戻りすることを恐れ、秀吉の大陸出兵をやめさせようと考えます。

また、朝鮮との良好な関係を保ちたい宗義智と小西行長は、秀吉の意図とは異なる交渉を進め、事なきを得ようとしていました。

しかし、秀吉は、我が子鶴松の死の悲しみを忘れるため、大陸出兵を本格的に進め始めます。そして、宗義智と小西行長の朝鮮との交渉内容を知った秀吉は、2人に大陸出兵の先陣を務めさせるのでした。

読後の感想

豊臣秀吉が天下を統一し、泰平の世が訪れたかに見えました。

ところが、秀吉は、大陸への出兵を計画し始めます。

その頃のヨーロッパ諸国は、世界中に植民地を持ち、現地の人々を奴隷として使役していました。これを知った秀吉は、やがて、明もヨーロッパの植民地となり、そして、日本もその危機にあると考えるようになりました。

その後の世界史を見ればわかるように、この時の秀吉の予想は当たっていました。日本も約250年後に西洋諸国からの侵略の危機を迎えます。

第14巻では、この秀吉の直感から、大陸出兵への道のりが描かれています。

国内では、秀吉の大陸出兵に反対する者が多くいましたが、それを口にする者はほとんどいませんでした。最初に大陸出兵に反対したのは千利休でした。この頃の秀吉は、まだ人の意見を聴く余裕がありましたが、不本意な形で千利休を切腹させたところから、独裁色が強まっていきます。

弟の秀長、子の鶴松を立て続けに失った秀吉は、ついに大陸出兵を決心します。

秀吉の大陸出兵は、武将たちの戦いが注目されがちですが、堺の商人たちにとっても大きな戦いでした。兵を大陸に輸送するためには、船が必要になります。その船を調達するのが堺衆の役目でしたが、必要な兵を大陸に送るだけの船も水夫も大幅に不足していました。

大名も商人も、早く大陸出兵を終わらせようと苦慮し、徳川家康も、その方法を探っていました。そんな時、秀吉の母の大政所が亡くなります。これをきっかけに秀吉に撤兵を促すつもりでいた徳川家康でしたが、秀吉の意思を変えることはできませんでした。

徳川家康(14)-山岡荘八
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