徳川慶喜(4)
薩摩の島津久光の働きにより将軍後見職に就任した一橋慶喜は、将軍徳川家茂とともに上洛します。攘夷祈願の賀茂行幸、幕府に攘夷実行を迫る石清水行幸と、尊王攘夷派の度重なる謀略から国を守るため、慶喜は様々な策を講じます。 |
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主な登場人物
あらすじ
薩摩の島津久光が大原重徳とともに江戸城において、将軍後見職を一橋慶喜(徳川慶喜)、政事総裁職を松平春嶽にすべきことを幕府に要求します。そして、幕府はこれを受け入れました。
その頃、京都では慶喜の弟の松平昭訓が、気性の荒い中山忠光、土佐や長州の勤王の志士と交わりを持つようになっています。
中山忠光らが倒幕計画を進めている中、幕府は将軍徳川家茂と一橋慶喜の上洛を決定。京都守護職に就任した会津藩主の松平容保も前後して入京しました。
文久3年(1863年)に入ってから、昨年より続く天誅騒ぎが激化していきます。
倒幕を進める長州勢力は、孝明天皇の賀茂行幸を画策し、その護衛を将軍に勤めさせました。さらに石清水八幡宮への行幸も計画し、その場で幕府に攘夷決行を誓わせようと企みます。
すでに開国し諸外国と交易を始めた以上、攘夷を実行することは不可能。そこで、慶喜は将軍家茂に仮病を使わせ石清水行幸に供奉することを中止させます。さらに将軍の代行として石清水行幸に供奉した慶喜も、当日に仮病を使い、孝明天皇から攘夷決行のための節刀を受けることを回避しました。
これに怒った攘夷派は、三条実美を慶喜の元に遣わし、攘夷決行の日時を急いで上奏するように迫ります。しかし、慶喜は、困ることなく、あっさりと攘夷実行の期限を5月10日と決定するのでした。
読後の感想
4巻では、いよいよ慶喜が上洛します。慶喜の政治的手腕が発揮されるのはここからです。
慶喜が上洛した頃は、尊王攘夷派による天誅事件が多発しており、洛中は騒然としていました。長州や土佐の攘夷派は、攘夷を口実にして倒幕を進め、孝明天皇の意思とは無関係に偽勅を乱発します。
もはや、彼らの行動は勤王とは呼べない状況です。
この時代に国全体の利益を考えて行動した政治家は、ほんの一握りだけで、誰もが自分の利益を優先していました。薩摩も長州も土佐も。
慶喜は、大局を見ることができる政治家だったと思います。攘夷を決行しても、国が滅びたのでは意味がありません。勤王のために働いても、他国に侵略されては、真の勤王 とは言えません。将軍徳川家茂を石清水行幸に参加させなかったことも、孝明天皇の節刀を受けなかったことも、国の存続を考えた行動だったのでしょう。
4巻では、荒くれ者の公卿の中山忠光と慶喜の弟の松平昭訓との関係からも目が離せません。視野の狭い中山忠光は、国がどういう状況にあるのかわからず、ただ攘夷を掲げて暴走し、やがて天誅組の乱を引き起こします。直後に長州藩は御所の警備を解かれ、京都から追放されたのですから、中山忠光は時勢を全く読めていなかったのでしょう。
徳川慶喜(4)-山岡荘八 |
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