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徳川慶喜(5)

八月十八日の政変で京都を追い落とされた長州藩が軍を率いて上洛を開始します。一橋慶喜は御所を守り、長州軍を退けることに成功しました。長州藩に対して寛大な立場の慶喜とは異なり、幕府や薩摩藩は長州征伐を主張。日本の内戦を望むイギリスやフランスの企みを見抜いた慶喜は、この難局をどう乗り切るのか。

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主な登場人物

あらすじ

文久3年(1863年)の八月十八日の政変で長州藩が追い落とされた後、薩摩の島津久光が政事の主導権を握ろうと動き出します。

一橋慶喜(徳川慶喜)は、島津久光の勤皇の志が本物かどうかを試すため、横浜鎖港が孝明天皇の望みであることを会議の場で突き付けます。

島津久光が政権を我が物にしようとするのは何故なのか思案する慶喜。その背後に水戸学を学んでいない大久保一蔵(利通)の存在があることに気づきました。

元治元年(1864年)の夏。池田屋事件で多くの勤皇の志士を失った長州藩が軍を率いて上洛し始めました。これに呼応して、水戸の天狗党も東から起ち上がり、慶喜は事態の収拾を迫られます。

御所に乱入した長州兵は、薩摩藩や会津藩によって撃退されました。さらに薩摩藩は、この機を逃さず長州征伐をすべきだと主張し、幕府重鎮も薩摩藩の考えに同調します。これに対して慶喜は反対しますが、孝明天皇から長州征伐の命が下されました。

いったんは幕府に屈した長州藩でしたが、勤皇の志を失った薩摩藩と手を握り再び動き出します。

再度の長州征伐を余儀なくされた幕府。しかし、将軍徳川家茂の薨去により事態収拾を図らなければならず、慶喜は徳川宗家を相続し征夷大将軍に就任するのでした。

読後の感想

徳川慶喜の5巻では、時代が激しく動き出します。

長州藩が、文久3年の八月十八日の政変で京都から追い落とされる前と後で、勤皇の持つ言葉の意味が全く変わってしまいました。

八月十八日の政変の前までは、読んで字の如く、勤皇は天皇を頂点にいただくものでした。ところが、その後は、勤皇は言葉だけのものとなり、いかにして天皇を自分の側に引き入れるかという政治の道具としての勤皇に成り下がったのです。

このような言葉だけの勤皇になったのは、本作では薩摩藩の大久保利通が水戸学を学んでいなかったことが理由だとしています。

徳川慶喜は、元治元年の蛤御門の変の際、長州藩との武力衝突を避けようとしていました。そして、長州藩の久坂玄瑞もまた幕府や慶喜と戦う意思はありませんでした。

なぜ、長州藩が幕府や慶喜を敵としなかったのか。それは、長州軍が掲げた「薩賊会奸」の旗を見ればわかるように長州藩は薩摩藩と会津藩を敵とみなしていたからです。また、長州藩と水戸藩との間に東西で同時に起つという密約が交わされていたことからも、水戸出身の慶喜を長州藩は敵とは考えていなかったと本作では述べられています。

蛤御門の変で、久坂玄瑞が戦死すると長州藩も名ばかりの勤皇になりました。

明治維新の実現で、日本は西洋列強の侵略を防ぐことができたというのが日本史の通説です。ところが、これは作られた通説であって史実とは異なります。

西洋列強の侵略を防ぐことができたのは、徳川慶喜の功績が大きいのです。

慶応3年(1867年)の兵庫開港がその典型例で、もしも慶喜が幕府の政権維持を最重要としていれば、山口と鹿児島を開港していたはずです。

大久保利通は、朝廷に兵庫開港の勅許を下さないように働きかけると同時に兵庫開港を望む英国公使パークスと手を組み、京都を通って敦賀へ旅行することを画策します。

朝廷と英国の板挟みになった慶喜に手を差し伸べたのは仏国公使ロッシュでした。彼は、薩摩と長州の力を殺ぐために山口と鹿児島の開港を慶喜に提案します。そうすれば、山口と鹿児島が諸外国に租借され、長州も薩摩も力を失っていくからです。

しかし、慶喜は、ロッシュの提案も拒否します。慶喜の中には、幕府も薩摩もなく、天皇を中心に日本が一致団結して諸外国と対峙することが最も大切なことだと考えていたからです。

最終的に兵庫が開港され、英国公使パークスは京都を通らずに敦賀に旅行することになりました。

もしも、徳川慶喜がロッシュの言う通りに山口と鹿児島を開港していたら、日本は諸外国の植民地となっていたかもしれません。奪権のみを目的としていた大久保利通は、そこまで考えられなかったのでしょう。

徳川慶喜(5)-山岡荘八
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