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徳川家康(26)

大坂夏の陣が終わり泰平の世の実現がなったかに見えました。しかし、家康は、我が子忠輝と伊達政宗が気がかりでした。隙あらば天下を奪おうとする伊達政宗を抑えるため、家康は、彼から忠輝を引き離す決心をするのでした。

主な登場人物

あらすじ

大坂夏の陣が終わり、大坂方に味方した者たちが次々と捕らえられていく中に豊臣秀頼の子の国松の姿もありました。

板倉勝重は、国松の命を助けようとするものの、その素性が明らかとなったため処刑せざるを得なくなりました。

豊臣家の滅亡で、戦なき世が実現できたかに見えましたが、家康には、気がかりなことが残っていました。それは、我が子の松平忠輝とその舅である伊達政宗です。

家康は、大坂夏の陣での不甲斐ない戦ぶりや秀忠の家臣を無礼討ちにしたことなどを理由に松平勝隆を通して忠輝に永対面禁止を言い渡しました。そして、忠輝は、江戸で謹慎する決意をします。

しかし、身の危険を感じた伊達政宗は、忠輝に自領の高田に帰るように告げ、自らも鷹狩りと称して無断で奥州に帰りました。

隙あらば、幕府を倒し天下を奪おうとする伊達政宗に対し、家康は、その野望を捨てさせるため、我が子忠輝を犠牲にする決心をするのでした。

読後の感想

徳川家康の最終巻です。

大坂夏の陣が終わり、家康が望む泰平の世がついに実現できたかに見えました。しかし、豊臣家が滅亡した後も、伊達政宗と我が子忠輝の存在が、家康を悩まします。

徳川家康が登場する作品では、大坂夏の陣の終結で直ちに徳川の天下が確立されたかのように描かれることが多いです。でも、家康の戦なき世を作る大仕事は、ここからが本番だったと言えます。

伊達政宗に天下取りの野望を捨てさせるためには、忠輝を彼から引き離す必要があります。そのため、家康は、忠輝に嫁いだ伊達政宗の娘の五郎八姫を離縁させ、さらにこれまでの忠輝の行為を罰し、永対面禁止を命じます。

また、朝廷に対しても、大名が天皇を利用できないように禁中並びに公家諸法度を制定するとともに井伊家と紀州徳川家に京を監視させる体制を整えました。

大坂夏の陣後、家康が亡くなるまでの1年弱の間に江戸250年の泰平の世を維持するための制度が次々と作られていったのです。

本作は、1950年から1967年の18年間新聞で連載されました。この期間は、日本が、戦後の焼け野原から高度経済成長を遂げるまでの期間にあたります。著者の山岡荘八は、戦争のむなしさ、そして、平和を維持することの難しさを徳川家康を通して、読者に伝えたかったのではないでしょうか。

家康は、死の間際、人は死なないと述べます。生命の大樹があり、人はその枝なのだと。枝は折れても大樹は死にません。それと同じで、個人は死んでも、地球上から生命がなくなることはなく、過去から未来に向けて脈々と生命が流れ続けていることを訴えたかったのでしょう。

現代を生きる人間は、自分のことだけを考えるのではなく、未来のことまで考えて行動しなければなりません。自分が所有していると思っている物は、全て天からの預かり物なのです。

豊かな自然も平和も、現代人の所有物ではなく、次代へとつなげていくバトンであり、そのバトンを現代人の手で止めてはなりません。

本作に登場する家康は、物語が終わりに近づくほど、平和を維持することの難しさを読者に教えてくれます。晩年の徳川家康は、狸親父と評価されがちですが、それは、泰平の世を守り抜くために自らが嫌われ者になる勇気を示した姿だったのかもしれません。

徳川家康(26)-山岡荘八
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