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酔って候

幕末に賢侯と呼ばれた4人の殿様を題材とした短編集です。幕末は、下級武士たちの活躍を描いた時代小説が多いですが、「酔って候」では、藩主の視点から幕末動乱の時代を描いています。表題作「酔って候」を含めた4作品を収録。

収録作品

  1. 酔って候
  2. きつね馬
  3. 伊達の黒船
  4. 肥前の妖怪

酔って候

主な登場人物

あらすじ

嘉永元年9月。藩主の山内豊惇(やまのうちとよあつ)が25歳の若さで急死したことから、容堂が土佐24万石の太守になりました。

容堂が藩主となってしばらくたった頃、幕府で将軍継嗣問題が起こります。紀伊の徳川慶福を推す井伊直弼に対し、容堂は島津斉彬や松平慶永らとともに一橋慶喜を次期将軍に推しました。しかし、最終的に徳川慶福が14代将軍家茂となり、将軍継嗣問題に口を出した容堂は謹慎となり、家督を養子の豊範が継ぐことになります。

家督を譲った容堂でしたが、政治の舞台から降りたわけではなく、吉田東洋を側につけ、土佐24万石の実権を握り続けました。

風雲急を告げる慶応3年。後藤象二郎が、将軍は天皇に大政を奉還すべきという案を容堂に献策します。この案は、土佐藩から15代将軍徳川慶喜に伝えられ、大政奉還が実現し、幕府政治はここに終わりを迎えました。

その後、京都御所で、徳川慶喜の辞官納地を決定するための小御所会議が開かれます。土佐藩は徳川家に恩があったため、容堂は、徳川慶喜の辞官納地を防ぐために会議で懸命に幕府をかばう発言を繰り返します。

しかし、討幕派の岩倉具視に押し切られた容堂は不本意な形で明治維新を迎えるのでした。

読後の感想

多くの時代小説で、脇役となっている山内容堂を主人公としたこの作品は、彼の豪快な性格と教養の深さを描いた物語となっています。

山内容堂は、酒好きであったものの、漢詩にも才能があり、当時の藩主にしては珍しく政治力も持っていました。これらの才能を随所に盛り込みながら物語は進んでいきますが、最後は酒で失敗した容堂の悲しげな姿が描かれています。

容堂は、暴虎のごとく幕末の時勢のなかで荒れまわったが、それは佐幕にも役だたず、討幕にも役だたなかった。

物語の最後の方に書かれているこの文章に、持てる才能をうまく使いこなせなかった容堂の悔しさが表れています。

きつね馬

主な登場人物

あらすじ

島津久光は、文化14年に島津斉興の5番目の子として生まれ、兄に名君と言われた島津斉彬がいます。

斉彬がこの世を去ると久光が藩主になるかと思われました。

しかし、斉彬の遺言で、次期藩主は久光の子の茂久となったため、久光は藩主になることができませんでした。それでも、茂久がまだ19歳であったことから、藩の実権は久光が握ることになります。

久光は、下級藩士の大久保利通を登用。そして、幕政改革を断行するために藩兵を率いて上洛します。久光の上洛は、各地の浪士たちの耳に入り、いよいよ薩摩藩が倒幕に動き出したと思われていましたが、久光にはそのような意思はありません。

彼は、京都の寺田屋に集まった浪士と討幕派の薩摩藩士を弾圧し、世間の期待を裏切ります。

京都から江戸に向かった久光は、幕政改革を行いましたが、幕府からは冷たくあしらわれました。これに憤慨した久光は、すぐに江戸を発ち、薩摩に戻ります。その途中、生麦村で行列の前をイギリス人が馬に乗って横切ったことに怒った久光は、家臣に無礼討ちを命じました。これが原因で、薩摩藩はイギリスと開戦することになり、時勢は久光の思惑とは異なる方向へと動き出すのでした。

読後の感想

島津久光の意思とは関係なく、薩摩藩が倒幕に進んでいくあたりが、滑稽に思える作品です。

賢侯と呼ばれた久光でしたが、「きつね馬」の中では、そのようには描かれておらず、下級藩士の大久保利通や西郷隆盛に利用された哀れな殿様といった印象です。

維新後、久光は、幕末の鬱憤を晴らすかのように錦江湾で打ち上げ花火をします。

花火は終夜桜島の天にはじけとび、その破裂音は、文久以来の久光の感情を象徴するかのように、轟いては消え、消えては轟いた。

伊達の黒船

主な登場人物

あらすじ

幕末の伊予宇和島藩に嘉蔵という提灯張替え職人がいました。後の前原巧山です。

嘉蔵は、手先がとても器用だったため、提灯の張替えの他にも、かんざし細工、うるし細工、雛人形の修理なども引受けていました。

ある日、嘉蔵のもとへ、清家市郎左衛門がやってきます。市郎左衛門は、先ごろ浦賀にやってきたペリーの話をし、宇和島藩主の伊達宗城が、藩で黒船を造ろうと言い出したことを嘉蔵に言います。

そして、市郎左衛門が家老の桑折左衛門に提灯屋嘉蔵なら造れるに違いないと伝えたことから、嘉蔵が蒸気軍艦の建造に携わることになりました。

黒船建造に携わることになった嘉蔵は、長崎に行き、そこで実際に蒸気軍艦を見たり乗船したりして、その動力について勉強をします。

嘉蔵の担当は、蒸気軍艦の動力の部分で、船体は長州出身の大村益次郎が技術的指導者になりました。

同じころ、薩摩藩も国産蒸気軍艦の建造に着手していました。そのため、両藩は、いつしかどちらが先に黒船を完成させるか競争になるのでした。

読後の感想

この作品は、殿様ではなく、一介の職人が主人公になっています。

とは言え、伊達宗城が自藩で蒸気軍艦の建造を思いつかなければ、嘉蔵の才能は埋もれたままとなっていたので、彼の功績は大きいといえます。

「伊達の黒船」では、ところどころに大村益次郎が登場し、いい味を出しています。完成した蒸気船の試運転をしたところ、1時間もすると足が遅くなったのを見て、嘉蔵が残念がる場面では、大村益次郎が「石高相応の汽罐でござる」と無愛想に答えています。

この言葉に大村益次郎らしさを感じます。

肥前の妖怪

主な登場人物

あらすじ

鍋島閑叟(なべしまかんそう)が17歳の時、江戸から肥前佐賀に帰ることになりましたが、途中で行列が動かなくなりました。藩が米や酒などを買った代金を払うことができなかったため、商人たちが座り込みをしたことが理由です。

この時、閑叟は異常な衝撃を受け、天下を動かしているのは士農工商の階級ではなく、金であると悟ります。それからの閑叟は、藩財政の建て直しに力を入れ、石高を36万石から61万石にまで増やしました。

ペリー来航の3年前の嘉永3年。国富充実した佐賀藩は、長崎砲台の大工事をはじめます。大砲も西洋銃も火薬も、工事はすべて佐賀藩の自製で行われました。

閑叟は、洋式兵器のあらゆるものを自藩で作り出せる能力を持とうとしたのです。

このような閑叟の構想から、江戸幕府が瓦解する直前には、国内で最も近代的な藩に佐賀藩はなっており、やがて戊辰戦争でその威力を発揮するのでした。

読後の感想

幕末の時代小説は、政治や思想を中心に描かれることが多いですが、この作品は、技術に焦点があてられています。

幕末には、賢侯と呼ばれた藩主が何人かいますが、鍋島閑叟が、その中で最も優れた殿様だったのではないでしょうか。

どんなに立派な思想を持っていたとしても、力がなければ実現することができません。若き日の閑叟が、商人たちの座り込みにあったことで、資金力の重要さに気づき、そこから西洋に負けない技術力を持とうと思い、行動に移した点は、まさに賢侯と言えるでしょう。

酔って候-司馬遼太郎
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