峠(下)
江戸で武器を購入し、長岡藩の中立を保とうとする河井継之助でしたが、藩論をまとめるのに苦心します。どうにか、藩士たちを説得した継之助は新政府の岩村精一朗にその旨を伝えたものの、まったく相手にされず、長岡藩に危機が迫ります。 |
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主な登場人物
あらすじ
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、陸路江戸に戻った河井継之助と長岡藩士たち。
今後の進退につき、継之助は、長岡藩の近縁三藩の家老に対し薩長に味方するように進言します。そして、スネルが用意した船を使い越後に戻りました。
一方、薩長を中心とした新政府軍は、東北諸藩に会津を討つように要求したものの失敗します。そして、東北諸藩は、会津とともに新政府軍と戦うため奥羽列藩同盟を締結しました。
江戸で武器を大量に購入した継之助は、奥羽列藩同盟にも新政府にも長岡藩は味方せず中立の道を選びます。しかし、藩論は、会津か新政府かに割れ、継之助の構想通りに事は進みません。
継之助が、どうにか藩論を中立にまとめた頃、会津と新政府との間で戦いが始まりました。継之助は、万が一に備え藩主父子をフランスに亡命させる手はずを整え、新政府に長岡藩は中立すると伝えに出向きます。
ところが、新政府軍の軍監岩村精一朗は、継之助の言葉に耳を貸さず、新政府に味方するか、それとも新政府を相手に戦うかしか認めません。継之助は、何度も頼みましたが、全く話を聴こうとしない岩村。
これ以上は交渉の余地がなくなった継之助は、自身の首を新政府に差し出すか、全藩挙げて新政府軍と戦うかの決断を迫られるのでした。
読後の感想
『峠』の最終巻です。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻った河井継之助は、船で長岡に帰国します。
新政府は、各藩に会津攻めに参加するよう説いて回りますが、継之助はそれに従う気はありません。だからと言って、会津にも味方はせず長岡藩は中立を保とうとしました。
しかし、時代はそれを許しません。長岡藩が採るべき道は、新政府軍に味方するか、会津に味方するかのどちらかです。最終的に長岡藩は、会津に味方することになりましたが、そうなったのは、新政府の外交能力のなさが原因と言えるでしょう。
長岡藩との交渉にあたったのは、土佐藩の岩村精一朗でした。まだ24歳だった岩村に長岡藩との交渉を任せたことが、戊辰戦争最大の激戦と言われる北越戦争の始まりでした。彼には、外交能力が全くなく、不必要な戦争を招いたといえます。もしも、岩村が長岡藩の中立を認めていれば、北越戦争は起こらなかったでしょうし、会津戦争も大きな被害とならなかったかもしれません。
岩村と同じく外交で失敗したのが、世良修蔵でした。世良は、東北諸藩に会津攻めに加わるよう説得しますが、その態度が横柄だったため、血祭りにあげられ、東北諸藩が会津に味方するきっかけを作ってしまいました。
岩村や世良ではなく、別の者が外交にあたっていれば、戊辰戦争の犠牲はもっと少なかったでしょう。
河井継之助の評価は、2つに分かれます。新政府に味方せず長岡藩を滅ぼした無能な家老という評価と世界の情勢に明るく時代の流れを理解していた新進気鋭の政治家という評価です。
河井継之助の知見は、経済の面でも優れていました。金と銀の交換レートが日本と海外で違うことを利用し、藩内に時には金を時には銀を蓄えていました。また、米価の変動にも詳しく、江戸で暴落する米を北海道で売るといった発想を持っていました。
しかし、継之助が家老を務めた長岡藩は、7万石程度の小藩に過ぎず、彼の構想を実現するには不相応でした。身の丈に合った決断をできなかったことが、河井継之助という政治家を無能と評価する見方がある理由でしょう。
本作では、河井継之助を武士道の視点から描いています。武士とは、どのような人間か、武士の覚悟とはどういったものか、読者は、気づけば、その視点から本作を読み進んでいることでしょう。
峠(下)-司馬遼太郎 |
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