HOME > 作家別 > 司馬遼太郎 > 関ヶ原(下)

 

関ヶ原(下)

西軍率いる石田三成と東軍率いる徳川家康が関ヶ原で激突。兵力でも地形でも西軍有利のはずが、開戦からわずか半日で東軍が勝利します。義によって動いた石田三成が、なぜ利によって動いた東軍の諸将に敗れたのか。関ヶ原の戦いの完結編。
 
 

主な登場人物

あらすじ

慶応5年(1600年)8月5日に江戸に戻った徳川家康は、東北の上杉景勝を気にして動くことができませんでした。その間にも東軍の城は西軍に次々と落とされていきます。

また、福島正則のような豊臣恩顧の大名が簡単に東軍に加担したことにも、家康は安心しきることができませんでした。

東軍と西軍の戦いが近づく中、諸将はどちらに味方するべきか決断を迫られていました。東軍に味方する武将、西軍に味方する武将、中には鳥羽の九鬼氏のように父の嘉隆が西軍につき子の守隆が東軍に味方して身内で東西別れて戦う家もありました。

石田三成が美濃の大垣城を攻略した頃、徳川家康はまだ江戸にいました。東軍の武将がいつ西軍に寝返るかわからない状況だったので、うかつに進軍できなかったのです。

家康が江戸を出発したのは9月1日でした。一方の西軍では9月7日に諸将が次々と大垣城に入ります。

そして、9月15日の午前7時。関ヶ原に集結した東西両軍は、東軍の井伊直政の鉄砲隊が西軍の宇喜多陣に撃ちかけたことを合図に天下分け目の戦いを開始するのでした。

読後の感想

「関ヶ原」の最終巻です。

石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍の戦いは、数の上では西軍有利でした。しかし、その戦いは、東軍の勝利で幕を閉じます。

勝った家康の戦いは、自軍が関ヶ原に到着した時に終わっていたと言ってもいいでしょう。そして、石田三成は、関ヶ原に布陣した時、すでに負けていたのです。

両者の違いは、一言でいうと、「人付き合い」となるでしょうか。家康は、戦の前から多くの武将を味方に取り込むために諸将の機嫌を取りました。その巧妙さにまんまと引っかかったのが、福島正則や加藤清正だったんですね。

一方の石田三成は、戦前から諸将の気持ちを害する言動が目立ったため、大一番で味方に裏切られてしまいました。

正義は石田三成にあったのに徳川家康が勝利したのは、人付き合いの巧拙の差だったのではないでしょうか。

 
 
関ヶ原(下)-司馬遼太郎
取扱店