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最後の将軍

水戸の徳川斉昭の子として生まれた慶喜は、一橋家の養子となり、次期将軍候補として周囲から期待されました。しかし、井伊直弼の安政の大獄により、慶喜は隠居慎となります。桜田門外の変により、幕府の権威が衰えると、その回復のために再び慶喜が政治の世界に現れます。将軍後見職となった慶喜は、朝廷、各藩、諸外国を相手にその才能を発揮するのでした。
 
 

主な登場人物

あらすじ

弘化4年(1847年)。激烈な攘夷論者である水戸藩主・徳川斉昭を味方に引き込んでおくことが得策と考えた老中の阿部正弘から、斉昭の七男・慶喜のもとに一橋家への養子の話がもたらされます。

我が子がのちに将軍になれるかもしれないと考えた斉昭は、その話を受諾し、慶喜は一橋家の養子となりました。

12代将軍家慶に可愛がられた慶喜でしたが、黒船が来航して間もなく家慶は亡くなり、その子の家定が13代将軍になります。しかし、家定は、体が弱く、政治に関わることもできなかったので、すぐに次期将軍を誰にするかが幕府内だけでなく、福井藩や薩摩藩なども交えて議論が交わされるようになりました。

その頃、アメリカとの通商条約についても、幕府内で議論が交わされており、条約を締結すべきかどうかは、孝明天皇の勅許を得て決めなければならないとの主張が優勢になっていました。そして、この国難を乗り切るためには、一橋慶喜を次期将軍とすべきあると、福井藩や薩摩藩などが主張していました。

ところが、大老の井伊直弼は、勅許を得ることなく条約に調印し、また、次期将軍も紀州の徳川慶福(家茂)に決定します。さらに幕政に口を挟んだ公卿、勤王の志士、福井の松平春嶽、水戸の徳川斉昭らを次々に処分していきました。慶喜も隠居慎となります。

井伊直弼が桜田門外の変で斃れて2年後。慶喜の謹慎が解かれます。そして、薩摩の島津久光の働きかけにより、将軍後見職に就任し、幕政に関わるのでした。

読後の感想

徳川慶喜を主人公にした作品です。

慶喜が将軍であったのは、2年足らずで、将軍後見職時代から数えても、政治に関与した期間は5年程度です。しかし、このわずか5年の間、慶喜が果たした役割は、日本にとって重要な期間でした。

慶喜は、水戸藩主の徳川斉昭の子として生まれました。これが、彼への評価を大きなものとしたと言えます。慶喜を徳川家定の次期将軍候補に推挙したのは松平春嶽でした。おもしろいのは、松平春嶽は、それまで慶喜と会ったことがないのに次の将軍は、慶喜しかいないと考えたことです。父斉昭が、慶喜を一橋家の養子としたこと、ここに大物感を感じた人々が多く、慶喜の意思とは関係なく、政治の舞台に担ぎ上げていきました。

慶喜が斉昭の子である宿命は、彼が将軍後見職になって以降も付きまといます。慶喜は、攘夷実行は不可能だと考えていましたが、激烈な攘夷主義者であった斉昭を父に持ったことから、常に周囲に攘夷実行を期待されます。一方、幕府内からは、水戸藩の出身であったことから、水戸藩の思うように政治を動かそうとしているのではないかと疑念を抱かれていました。

慶喜が攘夷実行に踏み切らないことについては、家臣の平岡円四郎が入れ知恵をしているからだと疑われ、水戸藩士によって暗殺されます。また、幕政を水戸藩の都合の良いように動かそうとしているとの疑念については、水戸出身の家臣であった原市之進に疑いがかけれれ、幕臣によって暗殺されました。

このように慶喜が世間から期待をされればされるほど、彼の周囲にいた者たちが犠牲になっていきました。

薩摩藩が、討幕を急いだのは、徳川慶喜の手腕を恐れたからではないかと思います。イギリスと手を組んでいた薩摩藩は、イギリスに兵庫開港を迫らせます。一方、薩摩藩は、朝廷とも裏でつながっており、公卿たちに兵庫開港を拒否するように図ります。板挟みとなった幕府は、これで自滅するだろうと思われましたが、慶喜は、朝廷を説得し、兵庫開港を実現しました。

この慶喜の見事な立ち回りに西郷隆盛や大久保利通は恐怖し、どんな手を使ってでも討幕を実現しなければならないと考えたのではないでしょうか。

やがて、時代は明治となります。その後の慶喜は、政治の表舞台から消えました。勤王家であった慶喜は、朝敵となることを恐れ、江戸城を新政府に明け渡し、静岡でひっそりと過ごします。幕府時代に交友があった人々とは、ほとんど会わず、ただ渋沢栄一と勝海舟とだけは面会していました。

明治以降、政治に関わらなかったのは、自らに着せられた朝敵の汚名を返上するためだったのかもしれません。

 
 
最後の将軍-司馬遼太郎
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