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徳川家康(24)

豊臣家の存続を願う家康の意思は大坂方に理解されず、ついに大坂冬の陣が始まります。それでも、豊臣家を救うため、家康は大砲を使って淀君を威圧し講和を結ぶことに成功しました。しかし、講和が成立したその夜。真田幸村と木村重成は、東軍の陣に奇襲を仕掛けようとするのでした。

主な登場人物

あらすじ

慶長19年(1614年)11月15日。家康は二条城を出発します。

しかし、大坂が講和を望むことを期待し、その進軍はゆっくりしたものでした。豊臣家の存続を望む家康は、開戦をできるだけ引き延ばそうとしていたのです。

ところが、家康の願いも空しく、東西開戦となりました。それでも家康は、大きな戦とならないよう、大砲を使って大坂城に籠城する淀君を威圧し、降伏させることにします。その家康の狙い通り、数発の大砲で大坂方は講和を申し入れ、大坂冬の陣は終結しました。

講和が確定したことで、気が緩む東軍の陣。それを見た真田幸村は、木村重成とともに奇襲をかけ、家康と秀忠を捕らえる計画を企てます。しかし、すでに気が緩んでいた豊臣秀頼を見た木村重成は、その計画が実行不能だと知り、真田幸村も諦めるのでした。

講和の条件として、大坂城の総構えを壊すことになりました。これで、大坂城は戦闘能力を失い、豊臣家も戦を仕掛けられなくなったことから、その存続が約束されたかに思われました。

ところが、家康の豊臣家存続の思いは、淀君にも豊臣秀頼にも届かず、再び戦が始まろうとしていたのでした。

読後の感想

第24巻では、大坂冬の陣が始まります。

家康の願いは、一貫して泰平の世を築き、それを維持することにありました。しかし、その思いは、豊臣家の重臣や大坂城に集まった牢人たちには理解されませんでした。

大坂冬の陣は、徳川家康が豊臣家に難癖をつけて始まった戦として描かれることが多いですが、本作では、そのような描かれ方はしていません。豊臣秀頼に移封を命じたのは、難攻不落の大坂城にいることで、戦乱を望む者たちが集まらないようにするためであり、豊臣家を滅ぼす意思はなかったのだと著者は考えていたようです。

その家康の意思を理解できなかった豊臣秀頼とその側近たちによって大坂冬の陣は始まったのだと。

大坂冬の陣では、豊臣家以外にも天下を我が物にしようと企てている者がいました。それは伊達政宗です。彼が、支倉常長をイスパニアに派遣したのは、イスパニアが大艦隊を率いて大坂に現れるのを期待したからでした。しかし、伊達政宗の望むようにはいかず、大坂冬の陣で、イスパニアの大艦隊が姿を現すことはありませんでした。

大坂冬の陣が終わり、ようやく家康も余生を安穏と過ごせるかに思っていましたが、年が明けて間もない時期に豊臣家が不穏な動きを見せたため、再び大坂に向けて出陣することになります。

徳川家康(24)-山岡荘八
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